岐阜県養老郡養老町―。養老の滝、孔子伝説で有名な養老山のそば、象鼻山の麓に名人の実家はある。午前6時、学校のチャイムみたいな柱時計の時報が鳴る。庭から愛犬マロンも「散歩だよ」と鳴き出した。
さあ山歩きである。これも日課だ。庭から続く山をマロンと一緒に歩いていく。いや、駆けていく。はやい。名人は山伏のごとく、飛ぶがごとく、である。腰につけた鈴の音がチリンチリンと響く。
イノシシの遊び場を横切る。シカの抜けたツノを蹴飛ばす。道は細く曲がりくねっていた。起伏ははげしい。足がすべる。蜘蛛の巣が頭にかかる。澄んだ冷気がひろがる。10分も歩けば、樹木の匂いが強くなる。スギ、ナラ、ヒノキ、マツ:。バットの原材料となるトネリコの木もある。さわやかである。
森の間に差す朝陽が神々しくみえる。かれこれ40分、展望がひらける電力会社の鉄塔下の広場にでる。とおくに恵那山がそびえ、大垣の市街がひろがっている。逆サイドには養老山地がなだらかな曲線をえがく。
 遠景を眺める目が柔らかい。名人がふと、漏らす。言葉が滋味をおびる。
「自然に感謝しています。自分が健康でいられるのは、この山のお陰です」
自然に囲まれ、名人は最近、ここで般若心経をひとり、唱えはじめた。3回はくりかえす。バット作りの引退後、四国の八十八カ所巡りをしようと決めているからだった。
「四国を回るなら、(般若心経を)おぼえることがマナーのような気がしましてね」
そんな律儀なひとなのだった。そういえば、2003(平成15)年11月に『現代の名工』に選ばれたとき、受賞者を代表してスピーチをすることになった。人前で話をするのは不得手だった。毎朝、この山間の鉄塔の下でひとり、練習したものだ。マロンの前の愛犬の名前がロッキーだった。「ロッキー、どうだった」と愛犬に聞きながら。 |