匠道 SHODO MIZUNO
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松瀬学(マツセ・マナブ)

1960年長崎県生まれ。1979年福岡県立修猷館高校卒業。1983年早稲田大学卒業後、共同通信社入社。 共同通信では一貫してスポーツ畑を歩み、1996年から4年間はニューヨーク勤務。2002年1月、同社を退社、ノンフィクションライターに。

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匠〜バット編〜第九章  
2009年4月16日  

選手との交流

 

 バット作りの技と知恵は、職人から職人に引き継がれていく。名人の久保田五十一からクラフトマンの名和民夫へ。
 2009年2月下旬。岐阜県養老郡養老町の『ミズノテクニクス』である。『バット工房』のおおきなテーブルを挟んで名和が座る。
 少年のような若々しい顔が少し日焼けしている。なぜかというと、2週間、沖縄から宮崎へ、プロ野球のキャンプ地を回ってきたからだった。
 名和は満足そうな表情をつくった。
「やはり選手の話を聞くことが目的でした。工場にきていただけない方からも、いろんな話をうかがいました。交流といいますか、まずはバット作りをさせてもらっていますと認識してもらう。すごくいい時間を過ごさせてもらいました」
 新人選手が相手でも丁寧に対応する。例えば、注目度ナンバーワンの新人、巨人の大田泰示(東海大相模高出)とも会った。
「バットに対してしっかり意見を持っていた。バットの勉強を兼ねて工場に行きたいというので、来年のシーズンオフには時間があればきてくださいとお答えしました」
 大田からはバットの太さの相談を受けた。高校では通算65本塁打。慣れた金属バットの如く、太いヘッドを使うべきかどうか、と聞かれた。
「太いバットだと比重の軽い木を使わないといけなくなります。そうすると、木が弱くなる。バットとボールは点と点のぶつかりあいだから、太さではそんな大差はないと思います。そんなことをご説明して、材料がしっかりした細いバットを試してもらいました」
 結果、大田のバットはヘッド直径が64.5ミリから63ミリと細くなった。

 
 

名和の責任

 

 名和は選手の要望や注文をメモ書きしてきた。形状やサイズはもちろん、バットの性能の話を聞いた。発見もあった。反発のいい木がいいのかなと思っていたら、反発はさほどよくなくてもいいと言われたこともある。
 名和は両手を目の前に伸ばし、波のような曲線をつくる。
「この仕事は通り一辺倒の作業じゃダメなんです。まっすぐじゃなく、うねうねとした仕事を取り入れていかないといけないと感じます。選手のこだわりを反映させないといけないからです」


久保田名人と名和 名和の責任は間違いなく、重みを増している。久保田の引退が近づくにつれ、そう実感もするようになった。担当するプロ選手の数は増えてきた。
 2009年。松井秀喜のバット作りを名人から引き継ぐ。やがてイチローのバット作りも担うことになる。
 イチローからのメッセージ。「覚悟を持っていただきたい」と伝えると、名和の顔から微笑が消えた。
「決して満足しないようにということだと思います。満足することはありませんけど:。あれだけすごい方なのに、もっと強い打球を打ちたいとか、常に向上心をお持ちになっている。だから、わたしも常にいいバットを目指さないといけません」
 2009年は記録がかかるシーズンとなる。日米通算最多安打、9年連続200本安打:。
「(引き継ぎの)タイミングはいつでも一緒でしょ。200本安打にしても、4年連続だろうが、5年連続だろうが、続けられている限り、責任の大きさは変わりません。久保田もわたしもプレッシャーがあるんですけども、とにかくいいバットを作るしかありません」

 
 

安心感

 

 さて『継承』と『創造』。
 引き継ぐものは。
「技術とかじゃなく、やはり使い手との信頼関係ですね。それが一番難しいと思います」
 たしかに技術的なものは毎日の積み重ねで上達できる。だが信頼作りは毎日できない。一心に削ったバットを通し、いずれ勝ち取るしかないのだった。
 久保田と名和では立場が違う。
「使い手の安心感の問題はあるでしょう。これまで久保田が削ってくれたバットだから大丈夫だろうという気持ちをお持ちの方も多いでしょう。名和に代わって大丈夫かな、というものもあるでしょう。だから、名和が作ったバット、イコール、ミズノのバットで大丈夫だと思っていただくようにしたい。安心感、これが難しいことです」

 
 
 
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