2003年、シカゴ・ホワイトソックスの本拠地、USセルラー・フィールドで行われたオールスター・ゲームで、アメリカン・リーグの先発メンバーには、ふたりの日本人選手の姿があった。
3年連続の球宴出場となったマリナーズのイチロー。
もうひとりはルーキーで初出場を果たしたヤンキースの松井秀喜。
アメリカン・リーグの外野を固めたふたりには日本人であるということの他にも、意外な共通点があった。
ミズノ製品を愛用するふたりの選手だが、グラブ、バットとも、同じ「名人」に依頼してエキップメント(用具、道具)を作ってもらっているのだ。
このふたりだけではない。オールスターに選ばれた選手たちの中には、多くのミズノ製品を使っている選手たちが名を連ねていた。
アメリカン・リーグでは、アルフォンゾ・ソリアーノ(ヤンキース↓レンジャース)、オールスター前夜のホームラン競争で優勝したギャレット・アンダーソン(エンゼルス)が球宴に登場し、
試合途中でマウンドに上がった長谷川滋利(マリナーズ)もこのリストに加わる。
また、ナショナル・リーグの面々では、トッド・ヘルトン(ロッキーズ)、マーカス・ジャイルズ(ブレーブス・怪我のため出場辞退)、 スコット・ローレン(カージナルス)の3人がファン投票で選出され、ブレーブスの守護神であるジョン・スモルツは、先発から転向し、
クローザーで大成功を収めたオールスターの常連である。
ミズノが大リーグの一流選手をサポートし始めてから、30年近くの歳月が流れている。 しかし歴史を振り返ると、世紀を超えた野球とミズノの深い関係が浮かび上がってくる。
ミズノの歴史は、野球の歴史と重なる。1906(明治39)年、ミズノは野球用ウエアの販売を開始。 そして '13(大正2)年、グラブとボールの製造を開始した。
第二次世界大戦前から少年野球や学生野球の大会を開催するなど、用具面だけでなく、野球のプロモーションという形でも大きな役割を果たした。 そして日本初の金属バットの発売やニットユニフォームの開発、ポジション別のグラブを取り揃えるなど、野球の発展に寄与してきた。
特に'70年代はミズノにとって大きな飛躍となる時期だった。 画期的な取り組みだったのは、'73年に日本のプロ野球選手に向けて、オーダーメイドのグラブを作り始めたことだ。
それまでほとんどの選手は外国製グラブを使っていたが、この時、巨人の堀内恒夫(現巨人軍監督)、高田繁、土井正三、阪急の長池徳二、福本豊、山田久志の 各選手がオーダーメイドのグラブを使い、それまでの既製品が主流だった時代から、選手のリクエストを踏まえたエキップメント作りの時代を迎える。
そしてこの流れは日本だけにとどまらず、アメリカにも及ぶ。ミズノはまったく足場がなかったアメリカで、'77年から「ミズノ・ワークショップ」を始めた。
ワークショップとはフロリダ、アリゾナの大リーグのキャンプ地をトレーラーで巡回し、選手のリクエストに合わせたグラブ作りを行うオーダーメイドシステムである。 イチロー、松井のグラブを作っている坪田信義(71)は、ワークショップが始まった時、大リーガーの目の前でグラブを作り、仕上げていった。
初めてグラブ作りを目の当たりにした選手たちは、「魔法のようだ」と語ったという。
「それ以来、スプリング・キャンプの時期になると、毎年欠かさずワークショップで選手のグラブを作らせてもらってます」
ワークショップはミズノ独特のものである。アメリカのグラブメーカーは、オーダーメイドのグラブを取り扱っていない。 キャンプの時に、100個以上にも及ぶグラブを並べ、選手が気に入ったものをピックアップしていくという形態になっている。
こうした光景はグラブの見本市ともいうべきものだ。これに対してワークショップは、あくまで選手のニーズに応える形でエキップメントを作っていく。 選手の注文に合わせて、ひとつずつ手作りで行うシステムは、大リーグの選手を驚かせただけでなく、現在も高い評価を受けている。
日本人選手が大リーグで活躍するようになったのは'90年代の中盤からだが、ミズノはひと足早く、アメリカで活躍していたことになる。
'77年のスプリング・キャンプだけで約400人の大リーガーがグラブを注文したが、その中にはアメリカの野球史上に残る名選手も含まれている。 ピート・ローズやジョー・モーガンといった、'70年代に黄金時代を迎えたシンシナティ・レッズの面々のサポートも行った坪田は、特にモーガンのグラブに思い出がある。
「ジョー・モーガンのグラブはプロ選手としては、世界一小さいグラブでした。近鉄でプレーした大石大二郎さんのより、小さかった。 反対に大きかったのは通算本塁打の大リーグ記録を持っているハンク・アーロンのグラブでした。合う型紙がなくて、別で作りましたから」
このワークショップがきっかけになって、ミズノは大リーグの一流選手のグラブだけでなく、バット、スパイクといった野球選手に必要なエキップメントすべてをサポートしていくことになる。
そして大リーグ史に残る瞬間を演出することになった。
'82年、オークランド・アスレチックスのトップバッターを務めていたリッキー・ヘンダーソンは、ルー・ブロックが持っていた1シーズン118盗塁の 大リーグ記録をはるかに凌駕する130盗塁をミズノのランバードシューズでマークした。
40歳を超えてなお現役を続ける快足ランナーは、通算で1406盗塁の金字塔を打ち立てている。
「安打製造機」と呼ばれたピート・ローズは、'78年からミズノとスタッフ契約を交わすほど、太い絆で結ばれた選手だったが、彼のキャリアのハイライトは'85年に訪れた。
記録更新は不可能と思われていた球聖タイ・カッブの持つ4191本の通算安打記録に追いつき、そして追い越した。 安打を製造し続けたローズのミズノ製バットは、ニューヨーク州クーパースタウンにある野球殿堂に展示された。
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| 1977年、ワークショップを始めた当時のトレーラー。クルマの中で寝泊りしながらキャンプ地を巡った。 |